明治の人生は30年と言われた時代に、諭吉がすゝめた肉の健康とは?
西洋に追いつき、追い越せを合言葉に、ひたすら富国強兵に走った明治の日本。その明治も、こと寿命に関する限り、人生50年の壁を破ることができなかった。
日本で初めて平均寿命が発表された明治24年~31年の第1回生命表によると、男が42,3歳に対して女は44,3歳。いずれも江戸時代とほとんど変わらない短命だった。そればかりか、最近の研究では、この初期の統計にかなりずさんなものがあるとして、改訂された生命表では、明治の20年代までは、平均寿命は20歳代を低迷、明治30年代になってようやく30歳を超えた。
そして40歳代を確実に超えたのは大正に入ってからとされ、あの人生50年は、第二次世界大戦も終わった昭和も20年代になってからだった。
が、いつの時代にも、長寿は人間のあこがれとみえて、明治37年1月1日の「時事新報」はこんなニュースを伝えている。このころ明治政府の栄養教育がようやく地につき、国民の長寿への関心が高まってきていたのだが、東京の最高齢者は、なんと102歳で、その食事は毎日牛乳3合を温めて飲み、主食は牛肉。米メシは一食一椀に限っているというもの。
思えば明治4年、かの福沢諭吉は、その年、銀座に開店した西洋料理店・千里軒の開店露文でこう訴えたのだった。
人の飲食するものは、ことごとく化して骨肉となるにあらず。ひとまず複中におさまり、その精分をこし分け、骨となり、肉となるべきは肉となる。(中略)されば、いま食物の良し否し(よしあし)はその中にふくめる滋養の精分の多きと少なきとによって鑑定すべきなり。
一切れの牛肉の中には、十斤の芋より精分多し。一杯の牛乳は、十本の大根よりも精分をふくむこと多し。古来わが日本人、この理に暗く、食物の容量(かさ)さえ多く食えば栄養になることと心得、のどから出るまで取り込みて満足しけれども、これはただ腹を満たすのみにして体を養うにあらず
と。
明治37年2月には日露戦争が始まったが、このころでも東京市民の肉の消費量は一人当たり1日8,5グラム、牛乳はわずか8ミリリットルだった。この102歳の長寿者は、まさしく福沢をして「してやったり」といわせるものだったに違いない。福沢諭吉の67歳も当時としては長寿だった。
お肉のミニ知識
日本人は、主に米(穀類)を主食とする食生活です。
穀類のアミノ酸だけでは必須アミノ酸のリジンやスレオニンが不足しやすいので、食事に肉料理が加わるとアミノ酸のバランスがとれます。お肉は欠乏しやすいアミノ酸を効率よく摂取することができる優れた、たんぱく質食品なのです。